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Tuesday, April 14, 2020

心からのお願いです

カイロプラクティックはWHOが認める補完代替医療として世界に広まっていますが、
日本では法的な立場が確保されていません。

つまり日本では医療ではありません。

いくら海外で勉強してきても、日本での医療資格と医師の指導がなければ医療行為はできません。



私は元々は医療だと思ってカイロプラクティックを勉強し始めましたが、深く深く追求していくと本質的にカイロプラクティックは医療ではないという結論が最も納得がいくものでした。

そうは言ってもそんな考えは極めて少数派です。

日本の、そして世界のカイロプラクターの9割9分は医療としてカイロプラクティックを捉え、提供しているのが現状だと思います。




昨今、新型ウイルスの感染症で騒がれてますが、“カイロプラクティックが免疫機能を向上させるからカイロプラクティックを受けましょう!”というキャンペーンを行なっているカイロプラクターも見られます。



でも、どうしてもここは日本です。



いくら海外で膨大な医学知識を勉強しても、いくら海外のデータを引っ張ってきても、ここは日本であり、データを取った時代も環境も大きく違えば有用とは言えません。

ましてや緊急事態宣言も出て自粛要請が出ており、且つ情報が入り乱れている最中に、「カイロプラクティックを受けたら良い事があるキャンペーン」は、タイミングを誤っていて利用者の方の安全、そして倫理的に今ではないカイロプラクティックのポジティブキャンペーンが逆にネガティブに働き、カイロプラクティックを提供する機会すら国に禁止されないかという危惧を抱かずにはいられません。然るべき医療を受ける機会を奪うことは許されることではありませんし、今のポジティブキャンペーンは医師会に突っ込まれればこの業界は終わりです。



いくら正しくても、真実でも、今やるべきことは倫理的行動です。



生活が厳しいのは重々わかります。それは私も身をもって痛感してます。

でも、カイロプラクターは今、自身の正当性を主張するべき時ではないです。




自身の正当性を主張するならば、

まずこの社会的な困難を乗り越えた後、カイロプラクターがちゃんと自分たちでデータを取り、社会的に有用な職業であることを自分たちの手で証明する準備が必要ではないでしょうか?

いつまで昔のアメリカのデータに頼って正当性を主張しているのでしょうか。



今やるべきことは、カイロプラクティックのポジティブキャンペーンではありません。

倫理的行動です。

つらい状況ですが、なんとか乗り越えましょう。ひとりの力ではなんともなりませんが、ホモ・サピエンスが会得した団結力で、社会の機能が以前のように回復することを最優先にやれることをやっていきませんか?



足の引っ張り合いではなく、協力がなければ大きな波は乗り越えられません。

私も誰かの足を引っ張りたいわけではありません。

この状況でのカイロプラクティックポジティブキャンペーンは適切ではなく、カイロプラクティックを行う権利を確保して多くの人生に貢献するためにも、今は倫理的行動をとってこれからちゃんとデータを取って権利を確保しましょう。

是非、皆様の御協力をお願い致します。

Friday, April 10, 2020

今、大切なこと

新型の感染症が世界中で騒がれて久しいですが、

インターネットやテレビ、新聞などで様々な情報が飛び交っていますね。


医学的解釈、社会学的解釈、経済学的解釈、倫理的解釈、スピリチュアル的解釈、陰謀論的解釈、カイロプラクティック的解釈、個人的解釈…


実に無数の解釈が「我こそは!」と世界中を飛び回っています。




いろんな人がいます。

いろんな意見があります。

いろんな噂があります。

いろんな解釈があります。

いろんな正義があります。




その人にとっては自分が正しくて、

その人から見たら自分以外の周りがおかしいとさえ思っています。



でも、


今、特に大切なことは自分が信じる“信実”を主張することより、

自分と、自分に関わる他者が納得できる行動をとることではないでしょうか?




いくら自分が信じる“真実と思っていること”でも、

周りにとって迷惑で不快な行為であれば、誰と幸せが築けるのでしょう?




そして常に、責任は自分自身にあるということ。

「自由に選択できる=自分に責任がある」 ということです。


例えば現在、外出自粛要請が出されています。

外出するかしないかの選択の自由が保証されているということですが、

言い換えれば、責任は自分自身にあるということです。




自由とは、単に好き勝手にして良いというわけではなく、

自分と自分に関わる他者に対して責任を負う義務を自らに課すということだと思います。



なので、そこら中消毒をし、マスクをしてメガネが曇る事にやきもきしながらも、

自分と自分に関わる他者が納得して幸せを築けるよう、全力を尽くして参ります。





Friday, January 17, 2020

カイロプラクティックは宗教か哲学か




宗教信じること
哲学考えること




最近様々な宗教に関して勉強をしていました。

というのも父方の実家がお寺であったり、宗教的な芸術作品によって精神的に救われたような経験があったのがきっかけのひとつです。

その背景にどういう考え方があるのかを追求するのが好きな性分なので、色々調べました。

宗教にも存在意義があるからこそ今でも存在するし、多くの芸術が宗教という思想に基づいているものだったりするので、必ずと言って良いほど芸術に触れる時に宗教とは切っても切り離せないものとなっています。

色々調べて浮き彫りになったのが『目的』です。宗教の目的は【救済】です。

その手段として聖書や教会や経典や寺社仏閣があるわけで、宗教の大元の目的は救済です。

人が生きる上で多くの苦しみや不安に襲われます。

一体なんでこんな事になってしまったのか…これから私はどうなってしまうのか…真実は何か…

来た道と行く道が示されれば、精神的に今が救われて生きることができる。

そのために宗教は存在していると解釈しています。

大抵の宗教が、人が伝え繋いだものです。聖典とされるものを読むと、例外無く生きる規範が書かれています。

こういうことはしてはならない、かくあるべきと。

その規範に基づいて生活することができると、多くの苦しみや不安が解消されていくように書かれてあります。

だからこそ変わりゆく世の中で宗教というものが息づいてきたわけです。

でも長い人類史において既存の宗教では腑に落ちない人が出てきました。

そういう人が新たな宗教や宗派を創始していくのですが、こうだと信じることだけでもまだ腑に落ちない人が科学者、哲学者と言われる人たちです。

目前の事実と聖書や経典に書いてある事との矛盾に向き合った時に、
検証して真実を追求していかなければ救われない人がそれです。

科学の世界で最高の学位はPhDです。それはDoctor of Philosophyの略で、
「哲学を教える人」となり、哲学の語源をさらに噛み砕くと、「智を愛する事を教える人」という意味です。

つまり哲学とは追求するプロセス(過程)であって哲学自体は至ったゴール(極地)ではないわけです。

しかしながら哲学の目的も【救済】にあるとも言えます。

なんでだろう?なんでだろう?と次々に湧き出る疑問に真摯に向き合ってどんどんと智を愛することで、

自分だけでなく多くの人も救うことができるわけです。



ではカイロプラクティックはどうでしょうか。

昔からカイロプラクティックは哲学、科学、芸術であるとよく主張してますが、
今やカイロプラクティック哲学は教義的な位置付けになっているのが現状です。

カイロプラクティックはこういう考え方をし、カイロプラクターはこのような行いをしなければならない。それ以外であればそれはもうカイロプラクティックではないと。

それはもはや信じる世界であって、追求するプロセスではなくなってしまってはないでしょうか?

表題にあるように、「カイロプラクティックは宗教か哲学か」は、
未だ「追求」しているのか、その追求を辞めて先人の説いた教えをひたすらに復唱して「信じる」かという事になってきます。

ではカイロプラクティックはどうあるべきなのでしょうか。

宗教としていくべきか、哲学としていくべきか。

答えはありません。

心身の不調に悩み苦しむ人にとって、
宗教的なカイロプラクティックが多くの医療難民を救済してきたことでしょう。

カイロプラクティックに悩んでいるカイロプラクター達にとってもひと筋の光となって何を行い何を行わないべきかという救いになった事でしょう。

逆にカイロプラクティックの教義を盲信することにそぐわなければ、
それを否定し新たな分野や分派を作っていくことでしょう。

そしてその人が最も納得のいくものを提供し、それで多くの人を救済していく事でしょう。


大元の人の悩み、不安や恐怖は、人間が時間と空間を認知できる能力が爆発的に高くなったからと考えられます。

つまり膨大な記憶力を得たと同時に過去を認識し、未来を考えるようになったわけです。

聖書で言うところの禁断の果実を口にしたというところでしょうか。

それによって物語が誕生し、信仰がうまれ、宗教が生じ、身の回りの事象が科学され、哲学が今なお深淵を究め続けているという事を鑑みると、宗教も哲学もなんら否定するべきものではないと思えます。現にそれらで救われている人が無数にいます。

よって、カイロプラクティックが宗教か哲学かなどということはなんら最重要事項ではないわけで、タイトルを見てここまで読んでくださった方には大変申し訳ない結論になってしまいました(笑)

ただし、私の性質上は宗教を受け入れ、事物を哲学として追求し続け、
自己と他者の救済に生きていくことが性に合ってるように思います。




『私が誰かを救う』という言葉を毛嫌いしていました。

救済の本質はその人の中にしか存在しない、つまり神や他の誰かが救済するのではなくその人がその人自身を救済している事に気付いて欲しかったからです。

でもどういう過程で救済するかはさほど重要ではなく、ましてやいずれかを批判することは不毛であり、自他共に出来ることで相互を救済し、相互が幸せに生きることが人間活動の目的だったと原点へ立ち返る事ができました。

カイロプラクティックに対する解釈の違い、方法論の多様性、これはカイロプラクティックであれは違う、これこそが!という事に拘って他を批判することは、自分のことしか考えられていない自己救済の段階であって、最終的にそれで他者の役に立つような活動をしていくことの方が重要であると結しました。

宗教であれ哲学であれ、最終目的は自他救済




私は脊椎サブラクセーションとそのアジャストメントを哲学し、 
多くの人の救済に携わりたい 


そう思って2020年も邁進して参ります!