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Saturday, October 1, 2016

人の死

先日、母方の祖父が享年94で他界した。

父の実家がお寺ということもあり人の死は身近なものだと思っていたが、カイロプラクティックを学んで改めて人の死を目の当たりにした時には、また違った感情を覚えた。



今回祖父の家に行った時には、もうそこには祖父の肉体だけがあった。

90年以上も肉体を生命体として組織し動かしてきた祖父の内在する叡智(イネイトインテリジェンス)がなくなった肉体は、人の形はしていたが冷たく何も動かずにただただ静かにそこにあった。



葬式の意義というか仏教的死生観に興味があり、一体通夜や葬式、火葬、その後の諸々に何の意味があるのだろうと思っていた。


が、祖父の葬式を見ていてわかった。

ある意味、故人との決別の儀式だということだ。



どうしてもご遺体や遺品などのカタチがあると、中々故人への執着をぬぐいきれずに次の行動に移るのが難しい。

いつまでも故人を想う気持ちは大切だが、故人の死を受け入れられないことが遺された人にとって生を阻むことになってしまう。




これを読んでどう思われるかわからないが、僕は冷たくなった祖父を見て、そこにはもう祖父はいないんだと思った。なぜなら、祖父を祖父たらしめる叡智がそこにはもう無いとわかったからだ。


叡智が創り出した肉体を90余年も働かせ、長年カタチあるものとして働いてきたその肉体に対して最大の敬意を表し、感謝の意を表した。





じいちゃん、お疲れ様でした。本当にありがとうございました。






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