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Wednesday, August 23, 2017

脊椎サブラクセーションの私的考察 part 8

今まで、一体脊椎サブラクセーションとはどういった状態なのか?を科学的に論じてきた。


しかし、"あるもの"の存在無しに脊椎サブラクセーションは語れない。

その"あるもの"こそが、「イネイトインテリジェンス」。



機械論的な内容が多かったがイネイトインテリジェンスという概念を差し置いて脊椎サブラクセーションは追求できない。

と言うより寧ろ、イネイトインテリジェンスの存在と共になければカイロプラクティックとは呼べない。



part 6 で、脊椎サブラクセーションの原因は過剰な物理的、化学的、精神的ストレスであることは述べたが、最大の根本原因は生きていること


では、その「生きる」とは何なのだろうか?

カイロプラクティックの考え方には独特の生命観がある。

生命とは叡智と物質とそれをつなぐフォース(力)の3つが一体となり"動き"を示すこと


どれが欠けても、生命、つまり"動き"を表現できなくなる。

3つが揃ってこそ生命体は動きを示し、生命活動が行われるわけだ。



そして part 7 で述べたように、脊椎サブラクセーション自体は病気の原因ではない。

単なる生理現象の一つであり、体を冷やしたら風邪を引く、お酒を飲み過ぎたら気持ち悪くなる、異物が喉に入れば咳をする、暑過ぎれば熱中症になって倒れる…

そんな反応と同じように、過剰なストレスに対する一つの生理現象として脊椎サブラクセーションという持続的な全身の情報変調が起こり、"動き(生命表現)"に違いが出てくるだけだ。






物質的な見地から解明しようとする機械論では生命を完全に網羅することは未だ出来ておらず、且つ生気論を"オカルト"と批判している。

かといって、非物質的な見地から世界を見る生気論には盲目的に信じる対象に胡座をかいて、現実を直視しないようにしていると思えてならない。



カイロプラクティックは世界最大の不思議である『生命』を対象としているため、

機械論、生気論、両方の異なった視点を持たなければ理解できないのだ。




更に言えば、非物質的な概念と物質的な実体は相互依存関係にあり、

どちらもお互いの存在無しにそれぞれの特性は存在しえない。


そんな両極を内包するのがカイロプラクティックという生き方だ。




脊椎サブラクセーションは、自己存在の叡智(イネイトインテリジェンス)が無ければ起こりえない。

死体にミスアライメント(椎骨の位置変位)はあっても脊椎サブラクセーションが無いのはそのためだ。

そして神経が全身を支配しているという科学的通念も不完全で、結局自己存在の叡智(イネイトインテリジェンス)が神経を使って全身を支配しているとしか説明がつかない。




脊椎サブラクセーションの誕生、歴史、科学的側面のアップデート、再考察をシリーズで展開してきたが、

イネイトインテリジェンスという自己を存在させる根本概念が無ければ、脊椎サブラクセーションはこの世に存在しない。



「卵が先か鶏が先か」

そんな不毛な議論よりも、今眼の前で存在し、起きていることがすべてだ。




最後に part 9 で纏めとしたい。


いや、敢えて「目に見えないものだけでなく、目に見えるものも同じく大切だ」と主張したい

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