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Friday, January 17, 2020

カイロプラクティックは宗教か哲学か




宗教信じること
哲学考えること




最近様々な宗教に関して勉強をしていました。

というのも父方の実家がお寺であったり、宗教的な芸術作品によって精神的に救われたような経験があったのがきっかけのひとつです。

その背景にどういう考え方があるのかを追求するのが好きな性分なので、色々調べました。

宗教にも存在意義があるからこそ今でも存在するし、多くの芸術が宗教という思想に基づいているものだったりするので、必ずと言って良いほど芸術に触れる時に宗教とは切っても切り離せないものとなっています。

色々調べて浮き彫りになったのが『目的』です。宗教の目的は【救済】です。

その手段として聖書や教会や経典や寺社仏閣があるわけで、宗教の大元の目的は救済です。

人が生きる上で多くの苦しみや不安に襲われます。

一体なんでこんな事になってしまったのか…これから私はどうなってしまうのか…真実は何か…

来た道と行く道が示されれば、精神的に今が救われて生きることができる。

そのために宗教は存在していると解釈しています。

大抵の宗教が、人が伝え繋いだものです。聖典とされるものを読むと、例外無く生きる規範が書かれています。

こういうことはしてはならない、かくあるべきと。

その規範に基づいて生活することができると、多くの苦しみや不安が解消されていくように書かれてあります。

だからこそ変わりゆく世の中で宗教というものが息づいてきたわけです。

でも長い人類史において既存の宗教では腑に落ちない人が出てきました。

そういう人が新たな宗教や宗派を創始していくのですが、こうだと信じることだけでもまだ腑に落ちない人が科学者、哲学者と言われる人たちです。

目前の事実と聖書や経典に書いてある事との矛盾に向き合った時に、
検証して真実を追求していかなければ救われない人がそれです。

科学の世界で最高の学位はPhDです。それはDoctor of Philosophyの略で、
「哲学を教える人」となり、哲学の語源をさらに噛み砕くと、「智を愛する事を教える人」という意味です。

つまり哲学とは追求するプロセス(過程)であって哲学自体は至ったゴール(極地)ではないわけです。

しかしながら哲学の目的も【救済】にあるとも言えます。

なんでだろう?なんでだろう?と次々に湧き出る疑問に真摯に向き合ってどんどんと智を愛することで、

自分だけでなく多くの人も救うことができるわけです。



ではカイロプラクティックはどうでしょうか。

昔からカイロプラクティックは哲学、科学、芸術であるとよく主張してますが、
今やカイロプラクティック哲学は教義的な位置付けになっているのが現状です。

カイロプラクティックはこういう考え方をし、カイロプラクターはこのような行いをしなければならない。それ以外であればそれはもうカイロプラクティックではないと。

それはもはや信じる世界であって、追求するプロセスではなくなってしまってはないでしょうか?

表題にあるように、「カイロプラクティックは宗教か哲学か」は、
未だ「追求」しているのか、その追求を辞めて先人の説いた教えをひたすらに復唱して「信じる」かという事になってきます。

ではカイロプラクティックはどうあるべきなのでしょうか。

宗教としていくべきか、哲学としていくべきか。

答えはありません。

心身の不調に悩み苦しむ人にとって、
宗教的なカイロプラクティックが多くの医療難民を救済してきたことでしょう。

カイロプラクティックに悩んでいるカイロプラクター達にとってもひと筋の光となって何を行い何を行わないべきかという救いになった事でしょう。

逆にカイロプラクティックの教義を盲信することにそぐわなければ、
それを否定し新たな分野や分派を作っていくことでしょう。

そしてその人が最も納得のいくものを提供し、それで多くの人を救済していく事でしょう。


大元の人の悩み、不安や恐怖は、人間が時間と空間を認知できる能力が爆発的に高くなったからと考えられます。

つまり膨大な記憶力を得たと同時に過去を認識し、未来を考えるようになったわけです。

聖書で言うところの禁断の果実を口にしたというところでしょうか。

それによって物語が誕生し、信仰がうまれ、宗教が生じ、身の回りの事象が科学され、哲学が今なお深淵を究め続けているという事を鑑みると、宗教も哲学もなんら否定するべきものではないと思えます。現にそれらで救われている人が無数にいます。

よって、カイロプラクティックが宗教か哲学かなどということはなんら最重要事項ではないわけで、タイトルを見てここまで読んでくださった方には大変申し訳ない結論になってしまいました(笑)

ただし、私の性質上は宗教を受け入れ、事物を哲学として追求し続け、
自己と他者の救済に生きていくことが性に合ってるように思います。




『私が誰かを救う』という言葉を毛嫌いしていました。

救済の本質はその人の中にしか存在しない、つまり神や他の誰かが救済するのではなくその人がその人自身を救済している事に気付いて欲しかったからです。

でもどういう過程で救済するかはさほど重要ではなく、ましてやいずれかを批判することは不毛であり、自他共に出来ることで相互を救済し、相互が幸せに生きることが人間活動の目的だったと原点へ立ち返る事ができました。

カイロプラクティックに対する解釈の違い、方法論の多様性、これはカイロプラクティックであれは違う、これこそが!という事に拘って他を批判することは、自分のことしか考えられていない自己救済の段階であって、最終的にそれで他者の役に立つような活動をしていくことの方が重要であると結しました。

宗教であれ哲学であれ、最終目的は自他救済




私は脊椎サブラクセーションとそのアジャストメントを哲学し、 
多くの人の救済に携わりたい 


そう思って2020年も邁進して参ります!



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